──古書の解読に没頭する事、どれ程の時間が経過したのだろう。
周囲の乗客の会話も随分と賑やかだったが、それも次第にと消え始めキルシュは本を閉じる。車窓から差し込む光も茜が射し、黄昏時となっていた。
やがて、空は橙から紫へ変わり天井に埋め込まれた丸い電球に明かりが灯り始める。 ぼんやりと宵闇迫る外の景色を眺めてみれば、あんなにもひしめき合っていた建物は減り、ライラックの帳が広がった世界は、随分と牧歌的になった事が分かり、辺境に近づいた事悟る。それから暫しして、紺碧の空に黄金や白銀を散りばめたかのように星が瞬き始めた頃、列車はレルヒェの駅に着いた。
同じ車両に乗っていたのはキルシュ一人だけ。 レルヒェ駅に降りる乗客は誰一人おらず、車掌に切符を渡したキルシュは一人、革製の大きな鞄を抱えて降り立った。 誰も迎えが来ていなければ良い。伯爵家まで遠いが、一人で時間をかけてゆっくり歩いて帰りたい。……と、そんな事を思いながらホームを歩むが、改札を出たと同時にその願いは打ち砕かれた。 そう、明らかに見覚えのある馬車が留まっていたのだから。 御者台に座す男はキルシュの姿に気が付くと、手を上げ軽い挨拶をする。「おお、キルシュ嬢。遅かったな、道草でも食ってきたのか?」
男は義兄とそう年も変わらない。ヴィーゼ家に仕える使用人ユーリだった。
宵闇と同じ濃紺を基調とした使用人服に身を包んだ彼は、皺の無いシャツをキッチリと着こなしていた。風格だけ見れば、貴族と変わらない気品を感じるが、彼も彼で能有りだ。だが、その証である紋様はいつも白の手套で隠されている。 「ユーリ久しぶり」迎えに来て貰って、あからさまに嫌な顔はできなかった。キルシュはフリルがふんだんにあしらわれた卵色のスカートの裾を摘まみ、礼儀正しくお辞儀した。
「久しいな。とは言え、数ヶ月前の夏の休暇で会ってた気もするが……」
艶やかな淡い金髪淡い金髪を掻き上げたユーリは、指折り暦の計算をする。
だが、自分の役目を思い出したのか、彼はたちまち我に返り、キルシュの背を押して馬車に乗るように促した。 「いかんいかん。雑談は後! さぁ乗ってくれ。遅くなると俺が旦那様に怒られちまうわ!」そうして、そそくさと御者台に上ったユーリは手綱を握った。
──それから馬車を走らせる事、幾何か。 街を抜け緩やかな傾斜を登り終えて、暫くすると馬車の速度は緩やかになる。 御者台のユーリが時折、話しかけてくれていたお陰もあるだろう。 三十分近い時間がかっているはずだが、体感はもっと早く感じてしまった。やがて、蹄の音は消え馬車はピタリと止まる。車窓を見ると、屋敷の玄関前のアプローチだった。
御者台を降りたユーリは客車の扉を開き、手を差し出してキルシュを降ろした。 玄関前に立てば『帰って来てしまった』と、嫌でも理解する。 屋敷からは暖かな橙の光が漏れている。それでも、義兄の冷淡な怒りが屋敷から漏れ出ているように感じてしまい……キルシュは緊張した面で扉と向きあう。 「さて。俺は馬を置いてくる。使用人もこの時間は明日の仕込みだのミーティングで忙しいんだろな。でも屋敷に入れば、誰かしら気付いて迎えに来てくれるだろうよ」これからキルシュが義兄に怒られるのは、使用人のユーリも分かっているのだろう。
彼は優しく笑んで、キルシュの肩を叩く。 こうして、励まされた事は素直に嬉しかった。「ありがとユーリ」
一生懸命に口角を緩め、彼を見上げる。ユーリはやんわりと笑んで頷くと、再び御者台に登って、厩舎の方へ向かって行った。 そうして、屋敷に入って暫しすると、ユーリの言った通り、のお仕着せ姿の使用人がやってきた。彼女は、キルシュの鞄を持ち、それを部屋に運んでくれると言う。「旦那様はまだ執務室におりますよ。帰宅したらキルシュお嬢様をそちらに通せとの事で……誰かに案内させましょうか?」
優しく聞かれるが、執務室は一階、玄関に程近い応接間の隣。目と鼻の先だ。
「すぐ近くだし大丈夫よ。それより荷物ありがとう。よろしくね」使用人に礼を言うと、キルシュは使用人の女と別れて、重たい足取りで執務室に向かった。
そうして、執務室の叩扉を三つ入れると、すぐに中から義兄の低い返事が聞こえた。「入れ」
キルシュは怖々と、ドアを開けて、入室する。
孔雀緑のカーペットを敷き詰めた狭いその部屋は、幅の広いチェスナットブラウンの机と本棚だけ。 正面の机……そこで義兄イグナーツは、キルシュに目をくれる事もなく、膨大な書類の山に向きあっていた。黒瑪瑙を思わせる艶やかな黒髪に同じ色をしたジレ。シャツは対比的な白で皺一つ無く、キッチリとした装いは、やはり二十代半ばという若年齢でありながら領主を務める風格をしている。
まして、暗色が強い装いをしているせいか、彼はどことなく不健康な程、肌が際立って白く見えた。「──おかえり……と、言いたいところだが、これで何度目だ?」
眉間に皺を寄せ、低く、冷たく、目もくれないままイグナーツは言う。明らかに怒っている。機嫌は最悪だ。否、イグナーツの対応は大抵こうで、キルシュに対して煙たげで当たりの強い態度を取る。
じっと見る事だって今は怖い。けれど、視線を反らせば、更なる逆鱗に触れて冷酷な言葉でなじられる可能性もある。キルシュ対面に立ったまま、怯えながらも義兄を見つめていた。
「聞いているのか?」
何も応えずにいれば、ようやく顔を上げたイグナーツは均整の取れた顔立ちを苛立ちに歪めキルシュを睨み据えた。黒橡の額で縁取られた眼鏡の中、青みを含んだ銀鼠の冷たい瞳は怒りに釣り上がっていた。確かに切れ長く細い目をしているが、普段ならばここまで釣り上がっていない。
それに射貫かれれば、まるで呪いにかけられたかのように言葉さえも出て来なかった。
何も言えぬまま。ようやくキルシュの薄紅の震えた唇から出た言葉は『ごめんなさい』の一言だった。だが、今回に限っては完全な正当防衛だ。水をかけられて、条件反射で起こしてしまった事。それに被害者がこちらで自分に非は無い。その旨全てを伝えよう……とは思うものの、口はパクパクと動くだけで言葉は出てこなかった。
「……でも」 ようやく出た言葉はたった一言。イグナーツは更に眉根に寄せた。「言い訳か? 恥さらしが。おまえは何のために生きている? 誰に拾われて生かされたんだ」 続けて言われた言葉に、キルシュは一瞬目を瞠るが、すぐに俯いた。 きっと分かってくれない。聞いてくれる訳がない。たったこの一言で悟る事ができたからだ。 〝誰に拾われて生かされた〟これを言われてしまえば、もうおしまいだ。 自分には、何も言う権利も持ち上がらせていないという事だ。 悔しくてやるせなくて堪らない。どうしてこうも……何も言わせないようにするのだ。 たちまちキルシュの若苗色の瞳には分厚い水膜が張り、それはみるみるうちに水流となって頬を滑り落ちる。「ごめんなさい」 俯けば、ポタポタと熱い雫が落ちてきた。義理とは言え兄だと思い、大切に思ってきた。 昔は優しかった。怖い夢を見て夜中に起きてしまい眠れなくなった夜、一緒に寝てくれた事もあったし、転んで泣いてしまったら、抱き締めて慰めてくれた事もあった。 『……大丈夫だ、キルシュ。俺がいる』 同じベッドの中、名前で呼んでくれた。抱き締めて背を撫でてくれた。涼やかな双眸を細めて、穏やかに笑んでくれた。 けれど、そんな優しい兄はもういないのだ。 キルシュは溢れ落ちる涙を拭い、肩で呼吸する。嗚咽が絡んで苦しい。 心がひどくヒリヒリとした。しかし、気を緩められない。気を緩めて、感情に飲み込まれてしまえば、具象の花が芽吹いてしまう。 そうしたら、もっとひどい叱責をされるのは分かっていた。 これ以上叱られるのだって癪だった。 なるべく思考に感情に飲み込まれぬよう、呼吸を整えていれば、ふと一つの疑念が過った。 ……兄が変わったのは、婚約の破綻のあったあの日。 具象の花をあげた事は、空気が読めない自分が悪かったと思うが、ここ
部屋に引きこもったまま数時間。キルシュはベッドに移って突っ伏していた。 使用人が夕食を運んでくれたが、返事をする事はおろか起き上がる気にもなれず、食事が乗せられたワゴンは廊下に置かれたままだった。(言ってしまったからにはもう巻き戻せない……) キルシュは寝返りを打ち、仰向けになる。 そうして薄く目を開けて、ぼんやりと天蓋の裏を眺めた。 時刻は既に十二時を回っただろう。使用人の足音や会話さえ聞こえず、屋敷中シン……とした静謐に包まれている。 明かりもつけずに何時間も真っ暗闇の中にいたので、暗順応で部屋の輪郭ははっきりと見えた。何も考えないでいた方が良い。気が滅入って、心が壊れてしまいそうだ。だから、こうしてぼんやりして寝落ちしようしているのに、頭も心も散らかり、どうにも義兄の顔が不機嫌な顔が浮かぶ。 そして続け様に、学院長、性格が悪いクラスメイトたちの顔まで……。 耳の中にこびりついた自分を蔑む言葉の数々に、キルシュは手で目を覆って唇を拉げた。(こんな力いらないよ……欲しくなかった) 再び嗚咽を溢すと、キルシュの手のひらから蔓が伸び、白い小花が次々に綻び、散った。 好きで、能有りで生まれたわけではない。できる事なら、そんなものは持たないで生まれたかった。 かといって、自分を不幸とは思わないし、恵まれすぎている待遇だとは思っている。 ……この屋敷に来た時、義父から部屋を与えられた。『今日からここがキルシュのお家だ』 そう言って、ドレスや装飾品を沢山与えられて、街に出掛けた時には可愛らしいお人形も買ってもらった。欲しいものは何でも与えてもらえて、美味しいものや甘いものも食べさせてもらって、記憶喪失とはいえ幸せな幼少期を過ごさせてもらった。 それに家庭教師を付けてもらえたし、十四歳でパトリオーヌ女学院に入学し、充分すぎる程の教育も受けさせてもらった。 どう考えても、ごく一般的な十七歳より
頭上に広がる紺碧の夜空に沢山の星々の瞬きが鮮明だった。今日は月が無い、新月だったようだ。 初秋の夜風は少しだけ冷たさを含んでいるが、まだ震える程の寒さでは無い。 キルシュは着の身着のまま、女学院の夏制服を纏ったキルシュは一人……否、一羽の鳩を連れて伯爵家へと続く穏やかな坂道を下りながら、ぼんやりと空を眺めて歩んでいた。 その表情は、どこかせいせいとしており、先程までの暗さが無かった。 「勢いだけで、本当に屋敷から出てきちゃった……」 キルシュは歩みつつも後ろを振り返る。後方には明かりが消えた屋敷の輪郭だけが闇にぼんやりと浮かんでいた。 ──何のために生きるんだ? おまえは、自分の存在意義をどうしたいの? 突如として現れた〝喋る鳩〟に訊かれた事に、キルシュは今も尚、答えも出せずにいた。 だが、考えるよりも身体が動くのは早かった。『分かった。出て行く。後で考える』と、鳩にそう言って、最低限の荷物を肩掛けの鞄に詰めた。そうして…… 探さないでください、兄様さようなら。 出来損ないの妹より そう、書き殴って家出した。 しかし、玄関から出れば間違いなく、使用人にバレてしまう。そこで、すぐに浮かんだ脱出方法は窓からだった。 自室の窓を空けて、能有りの力を使った。植物の蔦を生やし、近くの木に結びつけて飛び移り……そうして、あとは蔦を伝って木を降りた。 そうして思いの他、簡単に脱出に成功してしまったのだ。 ほんの少しだけ運動神経が良かった事も幸いしただろう。しかし。まさかこんな事に自分の力が役立つとは思わず、キルシュ自身も驚いてしまった。 「私の力って、夜逃げや家出に向いてたのね……なんか結構便利かも」 普段遣うなと制限しているものだ。それなのに、こうも簡単に思い通りに扱えてしまうとは。そして、家出を成功させてしまうとは。 ちょっとし
無計画に歩む事、幾許か。 真っ暗闇に静まり帰った真夜中の街を横切り、林檎畑の続く農園地帯を横切り、領地の南端の方までやってきた。 そもそも伯爵家のある場所が領地の南寄り。実際には大した距離ではない。 ……無計画とはいえ、家出は成功させたい。 やはり兄の言った言葉は到底許せぬもので、キルシュ自身むきになっていた。だからこそ、せめてこれくらいは成し遂げたいなんて思えてしまった。 とはいえ、二度と帰らないという程の心構えではなかった。 いつか帰って来て、立派になって見返してやりたい。と、ふんわりとその程度に思うだけ。 それでも屋敷を出るのに成功したのだ。何だか、今なら何でもできる気がして仕方ない。 (あのお兄様に〝ぎゃふん〟と言わせてあげたい。そうできたら最高) この家出を本当の意味で成功させるには、絶対に見つからないように、探し出せぬように。これが必須だ。そこで考えたのは、国外逃亡だった。 今、キルシュの目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。この森はシュメルツ・ヴァアルト……ツァール帝国と隣接するオルニエール王国の境となる森だった。 ……そう。レルヒェ地方でもヴィーゼ領は国境沿いの街だった。 だが、この深い森──シュメルツ・ヴァルトが理由してここには関所が無い。オルニエール王国との行き来するには、二つ以上離れた領地の川の関所を通らねばならない。 まさに抜け道と言えば抜け道だが……誰もこんな場所を通って他国に逃亡しようなんて考えもしないだろうと思えた。 だが、この選択は不思議と〝意図して〟というより自然と浮かんだものだった。 むしろ、勝手にこの方向に足が進み、直感的に悟っただけで……。(オリニエール語は一応話せるけど……ツァール語が普通に通じる地域が多いって聞いたわ。あちらで何かしら、仕事を見つけてどうにか生計を立てていけば暮らしていけるはず) きっと大丈夫だ。と、根拠も無い自信を心を弾ませて、キルシュは暗闇に広がる森を見る。 しかし、足は震えて一歩がなかなか踏み出せなかった。 この
新月の夜という事もあって、森の中はひたすらに暗かった。 しかし、カンテラなどの明かりをもっていたら、〝見えてはいけないもの〟が見えそうで、逆にこの真っ暗な方がかえって怖くない気がした。 森に入って一時間近く。キルシュは獣道を歩んで森の奥へと進んでいた。 時折、木の枝に引っかかったりもするが、問題なく歩けている。 こうも暗くとも暗順応が働き、目が慣れるものだった。それに針葉樹の隙間から見える星空を見る限り、星たちは西の方向へ動いている。 あと数時間で空が白み、夜明けを迎えるだろう。 それを理解すると、なぜだがホッとしてしまい、キルシュはその場にしゃがみ込んだ。「さすがに疲れたわ……」 家を出てから、ほぼ立ちっぱなしの歩きっぱなしでだった。 もう足が棒のようだ。膝も笑って力が入らなくなってきた。大都会で寮暮らしをするお嬢様にしては根性を出しただろう。ほんの少し自画自賛して、キルシュはその場に腰掛けた。 だが、そこで座ってしまった事が間違いだっただろう。 疲労から来る眠気は容赦無く襲いかかり、瞼が重たくなってきたのだ。 そもそも普段の生活では、日付が変わる前には確実に寝ているのだ。今の詳しい時間は分からないが、恐らく午前二時を過ぎたのではないだろうか。キルシュは瞼を擦って欠伸をひとつ。(せめて陽が昇るまでは起きていよう……) だが、もう一度立つ気力が湧かない。それに瞼は段々と持ち上がらなくなってしまった。国内屈指の心霊スポットだ。こんな場所で眠れるなんて自分の神経が意外にも図太いなんて自分でも心のどこかで感心してしまうが、体力的にもう限界だった。 (少しだけ、ほんの少しだけ……休もう) すぐに起きるんだと自分に言い聞かせて。キルシュは、背を木の幹に背を預け眠りに落ちた。 それからどれ程の時間が経過しただろうか。 心地良い眠りを彷徨っていたキルシュは、どこか聞き覚えのある子どもの声に突如として叩き起こされた。『おい、キルシュ起きろ!
やがて視界いっぱいを覆い尽くした閃光が消え、露わとなった正体にキルシュは目を瞠った。 ──それは、齢二十に届くか届かないかという風貌の青年だった。 柔らかに逆毛の立つ短い髪。その髪色は暗闇の中でも淡い色をしている事が分かる。装いは暗色を基調としたジレにシャツ、下衣に革製のブーツを合わせていて、洗練された雰囲気のあるものを召している。 上背もあり、ぱっと見た雰囲気は、鋭い目付きが印象的。とても、精悍な顔立ちの青年だった。 しかし、射貫かれた瞳は人間のものではない。 その瞳は暗闇の中、煌々とした光を放っているのだ。それはまるで、真昼の陽光を絞り集めたかのよな眩い金色で……。そんな瞳の奥底に真鍮色のギアのようなものがゆっくりと回っているのが見える。 更によく見れば、彼の首や手首の関節部位には不自然な継ぎ目があって……。 ふと連想するのは、機械科学の産物── 「機械人形(オートマトン)……?」 キルシュは呟くと、彼は何も答えずに視線を反らした。「走るぞ」 ぶっきらぼうに彼は言う。そして、彼はキルシュの手首を掴む獣道を駆け出した。 その一拍後、禍々しい咆哮を上げて異形の生き物は二人を追い始める。「**あああああ! 許さない、許さない、憎い……憎い!**」 のろのろとまどろっこしい、呪詛のような言葉が後方から響き渡った。 しかし彼の足は速すぎた。とてもでは追いつけず、さっそく足がもつれて転びそうになった瞬間だった。「仕方ないな」 痛い程に手首を引っ張られて、腰を掴まれた。そうして抱え上げられるなり、彼の肩に担がれる。 「──!」 とっさの事に驚いてしまった。 落ちないようにと片腕でがっちりと腰に腕を回……思いきり、おしりを触られているが、もはやそれどころではない。 背後からこの世の生き物とは思えない恐ろしい奇声が聞こえてくる。 ふとキルシュが身体を少し起こして後ろを見ると、やはりあの恐ろしい生き物が涎を垂らして追ってきていた。「ね
……と、言っても近すぎるだろう。 キルシュは彼からぷいと顔を逸らす。「な、何?」 いくら顔が格好良くて、人のように感情を持ち自立し思考するように思えても、人ではない。何を考えいるのか分からなかった。キルシュは、彼を一瞥した途端だった。すぐに頤を摘ままれて、無理矢理彼の方を向かされる。「……!」 頭から湯気でも上がってしまいそうだった。キルシュは真っ赤になって彼から目を逸らす。 堪らぬ羞恥は、具象の花を手のひらから次々に芽吹かせる。薄紅の蕾が膨らみぱっと小さな小花を次々に咲く様はまさに感情現れ。いたたまれない羞恥にキルシュは追い込まれる。「俺は一つ、おまえに頼み事をしなきゃいけない」 ややあって言った彼の声は少し震えていた。 おっかなびっくりとキルシュが彼を見ると、光る目のせいでうっすら分かる彼の顔が紅潮しているのが分かった。「頼み事?」 訝しげにキルシュは見る。彼は頷いた。「俺に少しヘルツを……おまえの〝心〟をくれないか?」「心?」 キルシュは眉をひそめて復唱した。 ──ヘルツとは、宗教学的に〝心そのもの〟を示す言葉だ。『心が欲しい』それがいったい、何を示すのだろうか……キルシュは困惑し何度も目をしばたたく。「〝心〟は力を発動させる為の原動力だ。さっきおまえを助けた時に、殆ど使い果たした。あと数時間しないと、俺の〝心〟は回復しない。このままだと俺たちは安全な場所に逃げ切れないと思う」 ──おまえを守らなきゃいけない、だから頼みたいんだ。と付け添えて。彼は、キルシュを上に向かせた。 確かこんなシーンは、夜に部屋で一人密やかに楽しむ娯楽、恋愛小説で見た事がある。 男性に頤を摘まみ上げられて、上を向かされて……そう。作中のヒロインたちと、全く同じ状態に置かれている。ああ、きっと、そうに違いない。 これから、されるであろう事
──霞のかかった白の視界は次第に色が付き始めた。黄昏を連想させる金と茜が交じり合う……そんな光が空間いっぱいに満ちていた。 記憶に無いが、そこはどこか見覚えのある景色で……。唖然としたキルシュは辺りをぐるりと見渡した。 なだらかな曲線を描いて広がる木目調の高い天井に、高い場所にある窓には蔓草を象ったアイアンの窓飾り。どこかの礼拝堂だろうか。『なぁキルシュ!』 途端に呼ばれた少年の声にキルシュが、振り向くと壇上のステンドグラスの前に少年と少女が立っていた。年齢は十歳に満たない程で……。 その光景を見た瞬間にキルシュの側頭部はズキリと痛んだ。 そこに立っている少女は、紛れもなく幼い頃の自分自身。茜色の髪に、若苗色の瞳。そんな小さな自分の正面で手を差し出している少年は、真夏の陽光を束ねたかのような金髪だった。 しかし不思議と彼の顔ははっきりと見えなかった。 それでも大きな特徴が見えた、左手の甲にある火輪──まさに太陽を象ったかのような能有りの紋様がある。それをはっきりと見た瞬間にキルシュの胸は痛い程に爆ぜた。喉の奥が嫌に乾いて苦しい。(何なの、これは……私は確か真夜中の森に居たはずで) どくどくと自分の脈が煩くなって、呼吸が苦しい。 身体が心が〝これ以上は見るな〟と拒絶している感覚もあるが、壇上の二人から目が逸らせない。 幼きキルシュは差し出された彼の手を取り、やんわりと微笑んでいた。 ……自然に普通に笑えている。今ではできない事に、キルシュは唖然としてしまった。『おれね、キルシュが大好きなんだ。大人になっても最高の親友でいよう。それでな、いつか……いつかは……』 顔の見えない少年は言葉を詰まらせる。そんな様子に幼いキルシュは首を傾げて彼を見上げていた。『なぁに?』 『──っ! いつか、おれの事を本当に好きになってくれたら、お嫁さんになってほしい!』 そう叫んだ彼に、幼いキルシュは繋いでいた手をぱっと外して彼に飛びこんだ。 『もちろんなの。ずっと傍にいて! だいすきよ、ケルン』 ケルン。 記憶にも無い名前だった。その名を聞いた途端、ぼやけて顔が見えなかった彼が次第に鮮明になる。ぱっちりとした、つり目。その双眸を彩るのは青空やネモフィラの花を思わせるよう……青い瞳で。 照れたように、はにかむ彼。微笑む幼い自
──昼過ぎ。キルシュは台所に立ち腕を組んでいた。 彼女の目の前には大きな瓶に詰めされた砂糖漬けされた苺。それからミルクと蜂蜜、卵に小麦粉が置かれている。「キルシュちゃん、そういえば苺って好き?」 朝食の後、シュネに訊かれてキルシュは即、頷いた。 苺は大好きだ。勿論ブルーベリーもクランベリーもクロスグリだって。ベリー系の独特の口いっぱいに広がる甘酸っぱい味わいは最高としか言いようもない。しかし、なぜにそんな質問か。訊けば、初夏に漬けた砂糖漬けの苺が大量に余っているので、食べてくれないかとの事……。「今年は沢山苺が採れて、ついつい楽しくなって収穫したのは良いんだけど……街で売っても余るくらいだったの。だから、砂糖漬けにしたんだけどね。半年くらいは持つけど、そろそろ一つの瓶は消化しきらないとって思って」 そんな風に言いながらシュネは大きな瓶をテーブルまで持ってきた。そうして蓋を開くと、周囲に甘酸っぱい幸せの香りがふんわりと広がった。 試食と何粒かいただいたが、これがなかなかに美味しかった。 何やら森の中で採れる野生の苺らしいが、酸味と甘みのバランスが丁度良く、硬さもそこそこあるそうで、生の果肉も美味しいらしい。 森の恵みは、ここでの暮らしの大事な収入源。秋からは、これら砂糖漬けをジャムにして使うそう。だが今年は大量に余っているそうで、形あるうちにどうかと。 そして「初めての調理練習に使ってみたらどう?」なんて、シュネは片目を瞑って言っていた。つまり、好きに使って練習して良いとの事だ。 そうして、彼女はつい先程、ヴィーゼの街へ買い物に向かっていった。 しかし、調理……。キルシュは頤に手を当て考える。 この森に来て早三週間近く。日々の家事を覚えて、掃除だけは少しずつできるようになってきた。しかし、調理はまだ。一人で調理は今日が初めてだった。 (さて、何を作ろう) キルシュは首を捻って瞑目する。ふわりと頭に浮かぶのは、苺のケーキだった。 学院
痛みの森に入って一週間。キルシュはこの廃教会での共同生活に慣れようと奮闘していた。 養子とはいえ、物心付いた時から伯爵令嬢だ。これまでの暮らしというと、食べ物を用意するのも部屋の掃除だって、何もかも誰かにやってもらう事が当たり前だった。王都での学院寮での暮らしだって寮母がいる。 しかし、この共同生活で全部シュネのおんぶにだっこでは情けない。「……と、いう訳でシュネさん私に家事を教えて欲しいの!」 シュネにぱっと詰め寄るキルシュが今纏う服はツァール帝国の民族衣装ディアンドル。〝お嬢さん〟と呼ばれるこの装束は、貴族令嬢のキルシュに馴染みの無いものだが、内心ずっと憧れていたものだった。ナイトドレス同様、服の換えが無いので、シュネから貰ったものである。まさかこんな形でディアンドルを着たいという内心にあった夢が叶うとは思わなかったが……。 そんな密かな夢を叶えてくれた(知りもしないだろうが)シュネの為にも、一人で家事を担っている彼女の負担軽減の為にもできる事は無いか。キルシュは目を爛々と輝かせる。「え、えっと……そうねぇ。でもキルシュちゃんそんなに意気込まなくたっていいのよ?」「でもでも、だって。私は何もしないで出されたご飯貰って寝て、何もしないなんてありえないもの。掃除も洗濯も、ご飯作りも!」 全部教えください! とキルシュが前のめりになるとシュネは困惑した顔で頬を掻く。「本当にゆっくりでいいのよ? じゃあ一つずつ簡単な事から教えていくわ」 そう言って、シュネはその日からキルシュに家事を教えてくれるようになった。 ……しかし、掃除も洗濯も調理も、どれもこれも全て上手くいかなかった。螺旋階段の掃除をしていて、ふらりと階段から転落しそうになってシュネに慌てて助けられた。雑巾を絞る為のバケツをひっくり返して、廊下を水浸しにした回数は五日間で三日。洗濯に関しては、濡れた洗濯物を絞る力が足りず、水浸しのまま乾かない。それに、食材を切るのなんて……シュネに一瞬で包丁
「あ、起きた」 片や、自分を覗き込む彼はしれっとした平坦な調子だった。 しかし、どうしてだ。先程までソファに座して二人で話していた筈なのに場所が変わっている。背中に感じる柔らかさ、そして彼の顔の向こうに見える見慣れぬ絵は恐らく天蓋裏。視界の隅に透けた素材のレースを諄い程にたっぷりとあしらったベール……間違いなく、ここがベッドの上だと悟ったキルシュは、かぁあっと頬を赤く染めてぶんぶんと首を振る。 「──ちょ、ちょ、ちょ! ちょっと待って!」 どうしてこうなったのだ。 本当にこれでは、半裸の彼に組み敷かれているようで……。 あたふたとしたキルシュはプルプルと首を横に振って抵抗しようとしたが──「は?」 いったい何の事なのか……と、いった具合にケルンは神妙な面持ちで小首を傾げる。しかし、キルシュの言いたい事を理解したのだろう。彼は、「くく」と喉を鳴らして笑い声を漏らしたかと思うと、途端に噴き出すように笑う。「……え?」 いったい何が何だか。キルシュは横たわったまま訝しげに彼を見る。一頻り笑うと、彼は眦にほんのり滲んだ雫を拭ってキルシュを見下ろした。 「……悪い。運んだ後、寝かせたらスカートの裾が乱れてたから直したんだ。何だか苦しげな顔をしてたから心配になって覗き込んでたんだよ。確かに体勢が悪かった。しかし、想像力が豊かだな」 変な事なんかしていない。ときっぱり言うと、彼はすっと身を引く。 つまりは全部勘違いだったのか。キルシュはホッとするが、自分の早とちりが恥ずかしく堪らない。 しかしだ。〝不完全だから厭らしい事を考える〟だとか〝ずっと好きな子〟だとか言われてしまうと、嫌でもそう考えてしまうだろう。変に意識をしてしまうのだって当たり前だ。キルシュはケルンをジト……と睨んだ。 しかし、焦って恥じているのが自分だけ。何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。
『キルシュの力って本当に綺麗だなぁ……』 少年の感嘆とした声が脳裏に心地良く響く。 玻璃を貫く斜陽は赤や黄、青に緑に白と複数の光を落としていた。やがて映し出されるのは、昨晩見た景色と同じ、木造立ての礼拝堂の中だった。 聖母の美しいステンドグラスの正面の座席に腰掛けているのは〝人であった頃のケルンと思しい少年〟と幼い自分の二人だけ。 幼いキルシュは、自分の名と同じ桜桃の花を手にひらから萌やしては光に還す……と、自分の力で遊んでいた。『なぁ、キルシュって確か、見た事のある花は何だって、出せるんだよな?』『うん、そうだよ?』 幼いキルシュは花咲く笑顔でふわふわと答えた。 ──キルシュの持つ能有りの力は、草花を芽吹かす力。しかし、これは〝キルシュ自身が見た事がある植物のみ〟という限定的な条件がある。 恐ろしい事があれば、蔓薔薇の茨となり身を守ろうなんて事もあるが、これだって見た事があるものだから具象できる。 しかし能有りの力は感情に左右されるもの。大袈裟に肥大し、実物を上回る恐ろしい大きさになる事もあるが、意図的に具象する分には普通の花の大きさと変わらない。 手のひらから出す事もできるが、地面に手を置けば、辺り一面を花畑にもできる。使いどころは不明で本当にどこまでも無駄な力だが、確かに綺麗な力とはキルシュ自身も思っていた。 能有りになんて生まれたくなかった。そうは思うが、素直に花は好きだった。 どこまでも無害で罪が無くて、美しい。その気持ちは幼い頃も変わらず同じだったのだろう。幼いキルシュは得意げになって今度は大量のかすみ草の花を芽吹かせて宙に散らす。 ふわふわと小さな花が降り注ぐ様は雪のよう。床に落ちると光に還り、キラキラと空間に漂った。 その光景を見て、ケルンだった少年は『すげぇ』なんて言って目を輝かせる。『なぁ! そうだ、キルシュ。おれさ、向日葵って花が見てみたい!』 前のめりになる彼に、幼いキルシュは首を傾げる。『
「な、なんでよ……」 唇をわなわなさせてキルシュが訊くと、彼はニタリと悪戯げに笑う。 二十歳前後の年端だが、唇の端を吊り上げていると、何だか悪戯小僧さながらの面影がある。「舐めたら甘そうな身体を無防備に見せてきた癖に。いいだろ別に」 ──キルシュって反応が面白いな。そのくらいの仕返しさせろ。なんて少しばかり意地悪に付け添えて、ケルンは笑う。 恥ずかしくて堪らない。キルシュは真っ赤になって、ケルンを睨む。 確かに、自分のやらかしに違いない。それでも、何だか腑に落ちない。キルシュはむっと頬を膨らませた。 しかし、舐めたら甘そうって……。その言葉を反芻してしまい、キルシュは更に頬を赤くした。 「……機械人形の癖に変態よ、不浄よ。ファオルと関わりがある時点で、貴方って一応は刻の偶像に関わりがある神聖な存在なんでしょ?」 対するケルンは、目を細めてどこか気まずそうに顎を掻く。 「あのなキルシュ。さっきも言ったが、俺は〝出来損ない〟だ。完全じゃないんだよ。だから、人と同じ成長してるし、普通に男として機能はあるんだよ」 ──無防備なおまえが心配になる。でも、そういう事も普通に考えるのは構造上、仕方ないだろ。……なんて、彼はふて腐れたようにブツブツと言った。 こうも精悍な面なのに、表情をコロコロ変えている所を見ていると、本当に人間らしいなと感心してしまう。しかしこれを言っていいものか。キルシュは、彼に着せてもらったシャツの裾をきゅっと握って居住まいを正す。「確かに貴方の事は、元が人間だと分かっているけど……」 ……自立し思考し、自我を持つ。それは人と何ら変わらない。それに、呼び覚ました記憶の中の彼は間違いなく人だった。今と髪色も瞳の色も違うが、それでもはっきりとした面影があり、大人へと成長した姿なのだろうと分かる。 しかし、どうしてそんな姿になってしまったのだろう……。 きっと、相応の理由があるのは、考えなくとも理解できた。 蘇った記憶の断片では元親友。とはいえ、自分にはこれまでの記憶なんて一つも無いし覚えていない。出会ってたったの一日だ。 ──元が人間だの言わない方が良かった。キルシュはすぐに後悔した。「ごめんなさい、私、とても無神経だった」 キルシュは素直に詫びた。気分を害してもおかしくない事だ。
午前二時過ぎ。静かに部屋を出たキルシュは、手燭を持って台所に向かった。 夕食の時に『ベリーのジャムと黒いパンは作り置きが沢山あるからいくらでも食べて』なんてシュネに言われた事を思い出したのだ。 きっと、頭に糖分が足りていない。だから、こんなにも暗い気持ちが押し寄せるのだろう。一人で納得したキルシュは、軋む音が鳴らないように螺旋階段を足早に下って台所で向かった。 この教会は〝歪んだ真珠の文化〟そのものの仰々しい装飾だらけだが、構造は単純で最低限の部屋しか設けられていない。 二階には部屋が四つ。下には台所と礼拝堂があるだけで、あとは廊下だけ。だから、たった一度の案内でも全てが把握できた。 難無く台所まで辿り着いたキルシュは、真鍮のドアノブを捻り、扉を引いたと同時だった──ゴソリと闇の奥で何かが蠢く気配を感じ取ったのだ。 何事か。まさか、狂信者だろうか。 だが、彼らはこの教会近辺にまず近づかないとは聞いた。手燭を握る手はカタカタと震え、掌から手首を這ってゆっくりと蔦が萌え始める。 「……誰かいるの?」 臆しながらキルシュは問いかける。すると、台所の奥深くの闇に二つの黄金の光がポッと灯った。 正体は不明。だが、それが目だと分かり、キルシュは『ひっ』悲鳴を出しかけた途端だった。〝何か〟が音も立てずに恐ろしい勢いで接近してきたのだ。 そうして、瞬く間にキルシュは背後から羽交い締めにされ、唇を塞がれた。「──ん!」 悶えながらキルシュは上を向く。すると間近で黄金に光る瞳と視線が交わった。(ケルン?) 間近に映る彼の精悍な顔立ちと、神秘的な輝きを宿して光る瞳にキルシュの鼓動は高鳴った。「……騒ぐな。シュネが起きる」 何かを口に含んでいるようなモゴモゴとした喋り方にキルシュは違和を覚えたと同時、ベリーの甘酸っぱい香りが鼻腔をつきキルシュは目を瞠る。 キルシュは腕まで巻き付いた蔦の具象を解く。すると、彼もキルシュを離した。
その日の夕食は、穀物の練り込まれた黒いパンに、キノコのスープ。それから魚を焼いたものと腸詰め肉にベリーのソースを添えたものだった。 シュネは、基本的に自給自足と物々交換の生活を送っているらしい。森でとれたキノコやベリーをレルヒェの市場へ持って行き、小麦や肉類、衣類などと交換しているそうだ。また、魚に関しては、夕飯時になると台所に置かれているそうで……恐らくケルンが湖で釣ってくるのだろうと言っていた。 ケルンの生活は、五年半の月日をともに暮らしているシュネでさえも大して把握していないそうだ。 分かる事は、今日のように晴れた日の日中は教会周辺で眠っていて、夜になれば動き出す……と、まるで野生動物のような生活を送っているらしい。 しかし、ケルンは動物とは違う。無機物だ。 それ故か、彼が食事を必要としないらしい。全く食べられないというわけではないらしいが、要らないと……。 ゆえに、これだけともに長く暮らすシュネでさえ彼が何かを食べている場面は一度も見た事が無いそうだ。 間違いなく後天的。とは言っても、機械に支配された身体なのだから、食べ物がエネルギーになるとは考え難い。いったい何が動力源なのだろうか……と、そんな疑問が浮かんでくる。 しかし、連想できる事は一つだけあった。 ──あの時、彼は力の解放にキルシュの〝心〟を喰った。 その時にされた行為はさておき。あの時『回復するのに』という言葉を言っている時点で、通常時は自然に動力を回復されているのだと思しい。 昼間は眠っている事が多いと聞くので、睡眠が大きいのだろうとは想像できた。 そもそも、〝機械仕掛けの偶像になり損ねた〟なんて発言や、神秘的生物のファオルとの接点などを考えると、もっと神秘的で神聖で人知を超えたものが絡んでいるのだろうとも考えられる。 しかし、あまり彼の事は考えないようにしよう。 どうにも、キスの事ばかり思い出してムズムズしてしまうのだ。 キルシュは湯浴みの後、与えられた部屋の中、ベッドの上に転がってお気に入りの古書を読み始めた。 今キルシュが纏っているものは、シュネが貸してくれた卵色のナイトドレスだった。 喩えるのであれば、その形状は森に咲くホタルブクロの花を連想する。胸や腰周りはぴったりとしているが、裾にいくほど幾重にも
「揃いも揃って騒がしいなぁ……」 続けて言った言葉は、欠伸を混じりの間延びした気怠げな声だった。 ストン。と、目の前の落葉樹の枝から音も上げずに降りた灰金髪の青年はゆったりとこちらに歩み寄って来る。 それは紛れもなく昨晩出会った〝機械仕掛けの偶像になり損ねた〟と自称する機械人形─ケルンだった。 彼の容姿は目立つ。なかなかの長身だ。それなのに、そこに居た事に気付きもしなかった。 否、そんな場所にいる事を誰が予想をするものか。だが、驚いているのはキルシュ一人だけ。それが彼にとっては日常なのだろう。「もう、ケルンってば。寝るなら部屋で寝ればいいのに……木から落ちたら危ないわ」 肩を竦めて呆れ気味に言うシュネにケルンは、伸びをしながら欠伸を一つ。「天気が良いから、昼寝は外の方が気分が良いんだよ」 …………機械人形も寝るんだ。と、どうでも良い感想が頭に浮かんだ。 だが、彼は間違いなく後天性。だから、別にそれが普通なのだろうと納得する。しかし彼の顔を……薄くも形の良い唇を見た瞬間に、キルシュの脳裏には昨晩の事が蘇った。 心をくれ。そう命じられて。上を向かされて、大人のするような、随分と情熱的で官能的なキスをされた。それも初めてのキスで……。 その唇は温かみがあった。食まれ、貪られるように何かを絡め取られ……と、生々しい程に鮮明な感触が途端に口の中に蘇り、キルシュは慌てて唇を押さえた。 (普通なら嫌な筈なのに。ファーストキスなのに。なんで私……) キスは心を通わせて両思いになった愛し合う男性とするもの。そういう常識があるのに。そうが良かった筈なのに、あんなに無理矢理……。キルシュは戸惑った。 ただ恥ずかしいだけで、決して嫌な心地が無かった自分に戸惑ってしまう。
昼食後、建物内の案内をするとシュネに言われて、キルシュはその後を付いて歩いていた。 誰もが近寄らぬ森の中に、建造物がある事自体にも驚いてしまうが、それ以上にこの建物の古典的で絢爛とした美しさに驚いてしまった。 ──月白の塗料に彩られた優美な曲線を描く螺旋階段は、歩めば軋んだ音が上がった。手すりの下の格子は唐草を思わせる飾り。そして、廊下に敷き詰められた臙脂色のカーペットも、通路の壁に設置された黄金の燭台も黒く煤けていて、かなり年季が入っている事を窺える。 ……見るからに、数世紀昔の屋敷のようだった。 華美なドレスのように、幾重ものレースがあしらわれた天蓋の付いた大きなベッドに、華やかな調度品の数々……。 それはどの部屋にも設置されていて、部屋の奥には蜉蝣の羽根のように透き通ったベールの付いた猫足のバスタブが置かれていた。 どの部屋も楕円型の間取りで窓までも丸みを帯びている。そして、目立つものといえば『これでもか』と言う程に施されたゴテゴテとした漆喰装飾だ。至るところに散りばめられた煌びやかさにキルシュは目眩を覚えた。 そうして、最後にシュネに案内された部屋にキルシュは圧倒された。 そこは、こぢんまりとした礼拝堂だった。 黄金と白を基調とした祭壇には天使や聖者の彫刻の数々が左右対称に配置されている。飾り柱にも細やかな装飾や聖人のレリーフの数々がひしめいていた。美しい彫刻の数々に促されて、そのまま宙を見上げて更に気圧された。 太陽が照りつける雲の上で数多の天使が歌う。 その反対側で茜髪の聖女が闇の中、輝かしい黄金の光を抱き茨の弓を引く──荘厳な天井画が色鮮やかに描かれていたのだ。 キルシュ自身、美術に深い関心がある訳でもない。それでも、この天井画は見惚れる程に美しいかった。しかしどういった訳だろう。この絵を見れば見る程どこか不安を掻き立てられる。キルシュはすぐに天井画を見るのをやめた。「綺麗でしょう? でもね、何だか不穏な気配がしちゃって私もキルシュちゃん同じ反応しちゃ