──古書の解読に没頭する事、どれ程の時間が経過したのだろう。
周囲の乗客の会話も随分と賑やかだったが、それも次第にと消え始めキルシュは本を閉じる。車窓から差し込む光も茜が射し、黄昏時となっていた。
やがて、空は橙から紫へ変わり天井に埋め込まれた丸い電球に明かりが灯り始める。 ぼんやりと宵闇迫る外の景色を眺めてみれば、あんなにもひしめき合っていた建物は減り、ライラックの帳が広がった世界は、随分と牧歌的になった事が分かり、辺境に近づいた事悟る。それから暫しして、紺碧の空に黄金や白銀を散りばめたかのように星が瞬き始めた頃、列車はレルヒェの駅に着いた。
同じ車両に乗っていたのはキルシュ一人だけ。 レルヒェ駅に降りる乗客は誰一人おらず、車掌に切符を渡したキルシュは一人、革製の大きな鞄を抱えて降り立った。 誰も迎えが来ていなければ良い。伯爵家まで遠いが、一人で時間をかけてゆっくり歩いて帰りたい。……と、そんな事を思いながらホームを歩むが、改札を出たと同時にその願いは打ち砕かれた。 そう、明らかに見覚えのある馬車が留まっていたのだから。 御者台に座す男はキルシュの姿に気が付くと、手を上げ軽い挨拶をする。「おお、キルシュ嬢。遅かったな、道草でも食ってきたのか?」
男は義兄とそう年も変わらない。ヴィーゼ家に仕える使用人ユーリだった。
宵闇と同じ濃紺を基調とした使用人服に身を包んだ彼は、皺の無いシャツをキッチリと着こなしていた。風格だけ見れば、貴族と変わらない気品を感じるが、彼も彼で能有りだ。だが、その証である紋様はいつも白の手套で隠されている。 「ユーリ久しぶり」迎えに来て貰って、あからさまに嫌な顔はできなかった。キルシュはフリルがふんだんにあしらわれた卵色のスカートの裾を摘まみ、礼儀正しくお辞儀した。
「久しいな。とは言え、数ヶ月前の夏の休暇で会ってた気もするが……」
艶やかな淡い金髪淡い金髪を掻き上げたユーリは、指折り暦の計算をする。
だが、自分の役目を思い出したのか、彼はたちまち我に返り、キルシュの背を押して馬車に乗るように促した。 「いかんいかん。雑談は後! さぁ乗ってくれ。遅くなると俺が旦那様に怒られちまうわ!」そうして、そそくさと御者台に上ったユーリは手綱を握った。
──それから馬車を走らせる事、幾何か。 街を抜け緩やかな傾斜を登り終えて、暫くすると馬車の速度は緩やかになる。 御者台のユーリが時折、話しかけてくれていたお陰もあるだろう。 三十分近い時間がかっているはずだが、体感はもっと早く感じてしまった。やがて、蹄の音は消え馬車はピタリと止まる。車窓を見ると、屋敷の玄関前のアプローチだった。
御者台を降りたユーリは客車の扉を開き、手を差し出してキルシュを降ろした。 玄関前に立てば『帰って来てしまった』と、嫌でも理解する。 屋敷からは暖かな橙の光が漏れている。それでも、義兄の冷淡な怒りが屋敷から漏れ出ているように感じてしまい……キルシュは緊張した面で扉と向きあう。 「さて。俺は馬を置いてくる。使用人もこの時間は明日の仕込みだのミーティングで忙しいんだろな。でも屋敷に入れば、誰かしら気付いて迎えに来てくれるだろうよ」これからキルシュが義兄に怒られるのは、使用人のユーリも分かっているのだろう。
彼は優しく笑んで、キルシュの肩を叩く。 こうして、励まされた事は素直に嬉しかった。「ありがとユーリ」
一生懸命に口角を緩め、彼を見上げる。ユーリはやんわりと笑んで頷くと、再び御者台に登って、厩舎の方へ向かって行った。 そうして、屋敷に入って暫しすると、ユーリの言った通り、のお仕着せ姿の使用人がやってきた。彼女は、キルシュの鞄を持ち、それを部屋に運んでくれると言う。「旦那様はまだ執務室におりますよ。帰宅したらキルシュお嬢様をそちらに通せとの事で……誰かに案内させましょうか?」
優しく聞かれるが、執務室は一階、玄関に程近い応接間の隣。目と鼻の先だ。
「すぐ近くだし大丈夫よ。それより荷物ありがとう。よろしくね」使用人に礼を言うと、キルシュは使用人の女と別れて、重たい足取りで執務室に向かった。
そうして、執務室の叩扉を三つ入れると、すぐに中から義兄の低い返事が聞こえた。「入れ」
キルシュは怖々と、ドアを開けて、入室する。
孔雀緑のカーペットを敷き詰めた狭いその部屋は、幅の広いチェスナットブラウンの机と本棚だけ。 正面の机……そこで義兄イグナーツは、キルシュに目をくれる事もなく、膨大な書類の山に向きあっていた。黒瑪瑙を思わせる艶やかな黒髪に同じ色をしたジレ。シャツは対比的な白で皺一つ無く、キッチリとした装いは、やはり二十代半ばという若年齢でありながら領主を務める風格をしている。
まして、暗色が強い装いをしているせいか、彼はどことなく不健康な程、肌が際立って白く見えた。「──おかえり……と、言いたいところだが、これで何度目だ?」
眉間に皺を寄せ、低く、冷たく、目もくれないままイグナーツは言う。明らかに怒っている。機嫌は最悪だ。否、イグナーツの対応は大抵こうで、キルシュに対して煙たげで当たりの強い態度を取る。
じっと見る事だって今は怖い。けれど、視線を反らせば、更なる逆鱗に触れて冷酷な言葉でなじられる可能性もある。キルシュ対面に立ったまま、怯えながらも義兄を見つめていた。
「聞いているのか?」
何も応えずにいれば、ようやく顔を上げたイグナーツは均整の取れた顔立ちを苛立ちに歪めキルシュを睨み据えた。黒橡の額で縁取られた眼鏡の中、青みを含んだ銀鼠の冷たい瞳は怒りに釣り上がっていた。確かに切れ長く細い目をしているが、普段ならばここまで釣り上がっていない。
それに射貫かれれば、まるで呪いにかけられたかのように言葉さえも出て来なかった。
何も言えぬまま。ようやくキルシュの薄紅の震えた唇から出た言葉は『ごめんなさい』の一言だった。だが、今回に限っては完全な正当防衛だ。水をかけられて、条件反射で起こしてしまった事。それに被害者がこちらで自分に非は無い。その旨全てを伝えよう……とは思うものの、口はパクパクと動くだけで言葉は出てこなかった。
暫くしてもキルシュは何も答えられないままだった。 静謐の中で、シュネが啜り泣く声だけが響き渡る。 だが、シュネ立場で考えれば理解できる。 もし、同じ状況下に置かれたとなれば、自分だって同じ事をするだろう。そもそも彼女を責めるのは筋違いだ。 義兄の婚約者と隠していた事においても、彼女が捕縛された事においても、何一つ彼女を責める部分などない。〝隠していた〟だけで、彼女は何一つ悪い事なんてしていない。寧ろ、義兄の毒牙にかかった犠牲者に違わないだろう。(能有り能無しを抜きにしても、女を何だと思っているの……同じ人間に変わりないのに) ボロボロになった彼女の姿を見るだけで、酷く心が軋む。 それでも、先程聞いた言葉の意味を、どうしても確かめずにはいられなかった。キルシュは鉄格子の向こうで肩を震わせるシュネに、そっと声をかける。 「ねぇ、シュネさん。さっき言っていた《蝕》って何……?」 キルシュの問いかけにシュネは、顔を伏せたまま、膝に落とした手をぎゅっと握りしめた。 その指がかすかに震えているのを、キルシュは見逃さなかった。 「……能有りを人間とさえみなさない、国境過激派諸派よ。歴史の中で何度も能有りの虐殺を行ってきた」 ──それが《蝕》。イグナーツ様は……違う。ヴィーゼ伯爵家そのものが代々信心の深い信徒だった。 その言葉を聞いた瞬間、キルシュの中で何かが外れた。 まるで心の奥に、閉じられていた扉が、ひとつ、音を立てて開いた心地がした。 脳裏で火の粉が舞う──刺すような冷たい空気の中で燃え盛る炎の熱さ。建物を燃やす轟音と子どもたちの悲鳴や泣き声。そして、血まみれで地面に突っ伏せた伏せた大好きな親友。 ボーン、ボーン……と低く響く柱時計の鐘の音が耳の奥で響き渡る。 身体の自由を奪われた上、目隠しをされて呪詛のような言葉の羅列……。
遠くでシュネの呼ぶ声が聞こえて、キルシュは瞼を動かした。 確か、消息を絶ったシュネを探しにレルヒェの街に降りて……伯爵家に帰って。その一連を思い出した途端、キルシュははっと瞼を開けた。 (シュネさん……!) しかし随分と埃臭い。横たわっていた場所は、煤けた簡素な寝台の上──キルシュは体を起こし上げてすぐだった。「キルシュちゃん! ここよ!」 シュネの声はやはり幻聴ではなかった。キルシュが急ぎ、声の方を向くが絶句した。目の前には鉄格子。向かいの房にシュネがいた。 しかし、黒衣のドレスの胸元は破れ、髪の毛は随分と乱れていていた。頬を撲たれたのか腫れている。それに彼女の瞳は赤々と充血し、溺れるように潤っていて……。 まるで──〝乱暴でもされた〟ようだった。彼女の姿を見てキルシュは青くなるが、すぐさま、彼女に近付こうと鉄格子に寄って、初めて違和に気付いた。 キルシュの両手には手かせが嵌められていた。 その手の甲に浮かぶ「能有りの証」である紋様は、赤い塗料でべっとりと上書きされている。 ──火輪に似た形。その周囲を囲う歯車、機械仕掛けの羽根、そして栄光を象徴する光。それはまるで、ケルンの紋様に、国教の全てをなぞったかのような、奇妙な印だった。「……何、これ」 ぞっとして、キルシュは訝しげにそれを見つめる。 だが不思議な事に、力が湧いてこない。こんな状況なら、蔓草が勝手に現れてもおかしくないはずなのに。(もしかして……権能を無効化して、《心》を遮断している?) 屋敷に戻ってからの記憶は曖昧で、ユーリに会った後、何が起きたのかすら掴めなかった。 ただひとつ、シュネが生きていた事だけが確かな救いだった。 向かいの牢の彼女に、キルシュは声をかける。「シュネさん……無事でよかった。大きな怪我はしていませんか?」
伯爵家に続く緩やかな坂道を自分の足で昇るのは、随分と久しかった。 前に帰省した秋口は、ユーリの御する馬車に揺られての帰省。酷く陰鬱な気持ちだった。だが、今のキルシュは、それ以上の不安を背負っているというのに、なぜだか気持ちが軽かった。 シュネが生きている希望があると分かってほっとした事もあるだろう。 それに、今は一人ぼっちではない。ケルンやファオルだっている。それが分かるだけで、伯爵家に戻る事に関しては大きな不安は無かった。 それでも、この絆は永遠にできないのは分かっている。不透明で先行きなど一つも見えない。朝の不安はやはり頭をちらついた。(それでも私は、今を大切にしたい……少しでも希望を信じたい) どこに身を潜めているか分からないケルンの事を思いながらキルシュは歩む。今日の今日で全てが崩れるわけがないだろう。そう願いつつ、キルシュは黙々と歩んだ。 ややあって、門の前に辿り着く。 キルシュが柵を押そうと手をかけたと同時だった。どこか不安そうにファオルが頬に擦り寄ってきた。『キルシュ、正面から行くの?』「うん。状況が分からない以上、こそこそ入っても仕方ないもの。……私は、ここの〝お嬢様〟なんだから」 大丈夫と念を押すように言うと、ファオルは静かに頷いた。 白い鳩の姿をしたファオルが、どこか甘えるように擦り寄る。それがとても愛しくて、キルシュは微笑む。 今そばにいてくれる事。それだけで心が救われる。(たとえ、門の先で罵倒されようと──もう、怖くはない) 覚悟は決まっている。それでシュネが無事ならば、それだけで良い。 屋敷を見上げると、灯りは煌々と灯っていた。 詳しい時間は分からないが、街の民家で時計を見た時、午後九時になろうとしていた頃合いだった。なので、まだ日付は跨いでいないだろう。 しかし、キルシュは一つ違和を覚えた。正面玄関真上、最上階に位置する領主の部屋の灯りだけが消えているのだ。 …&hellip
寒空は分厚い雲に覆われていたが、雪明かりのせいか、妙に空は明るかった。(雪が降っていないだけ、まだ良かった……) それでも寒い。レースをふんだんにあしらった焦げ茶色の外套に身を包んだキルシュは、時折吹く氷の風に肩をすくめながら夜の森を進む。 その肩に乗るファオルは、まだ鼻をすんすんと鳴らし、静かに泣いていた。 カンテラに照らされた雪の道は、シュネが権能で融かしていたおかげで、歩みに支障は無い。そんなキルシュの少し後ろを、ケルンがいつもの軽装で黙々と歩いている。 既に、森の奥深くにある廃教会を出ておよそ一時間。 針葉樹ばかりだった木々に落葉樹が混じり始め、上空も徐々に開けてきた。森の出口が近い証拠だ。 ──こんな長距離を、雪の日も雨の日も。 シュネは、これを毎日のように往復していたのだろうか。今さらながら、彼女の体力に圧倒された。 だが、それよりも。 本当に、どうしてしまったのだろう。事件や事故に巻き込まれていなければいいが……とにかく早く、無事を確かめたい。胸の中では、そんな思いばかりが渦を巻いていた。 やがて森を抜けると、遠くにぽつぽつと街灯と民家の灯りが見えてきた。 キルシュは立ち止まり、やや後ろを歩いていたケルンの方へと振り返る。 彼は変則的な使徒で、元は人間──その姿は、普通の人間にもそのまま見えてしまうと、以前話していた。 闇にぼんやりと浮かぶ発光する瞳。首元に露わになった金属質の部位。 確かに、これでは目立ちすぎる。見られれば、厄介な事になるだろう。 「ケルン、ここで待っていて。私は民家や商店に聞き込みに行ってくる。……多分、ファオルは私の肩に乗っていても、普通の人には見えないと思うから」 ファオルの背をそっと撫でながらそう言うと、ケルンはすぐに首を振った。「いや。この時間だ。夜も更けてきて、人通りはほとんど無い。……俺は目立たないようにキルシュを追う。キルシュにまで何かあ
「イグナーツ様。風の噂ですが……義妹様が能有りだったと聞きました。なぜ貴方は《蝕》に属するのに、能有りを受け入れたのですか?」 当たり障りなくシュネが尋ねると、イグナーツは頤に手を添えた。「奇妙な質問だな。だが、おまえは俺の特別だ。教えてやろう。あの娘は、能有りの中でも最も穢らわしい権能を持っていた。だからこそ、我らが管理すべきだと判断した」「……管理?」 訝しげにシュネが眉を寄せると、イグナーツは淡々と続けた。「神からの啓示で十八までは生かせと命じられていた。だから満足な生活と教養も与えて泳がせた。だが過去を覚えていれば厄介だ。だから、洗脳して記憶を奪ったと父から聞いた。……全てはその命を贄として使うために」 最後に、「神堕ろしの贄として命を使う」と付け加え、彼は薄く笑う。 その言葉に、シュネの面輪は凍りつく。 ──洗脳。贄。キルシュちゃんが? あまりの衝撃に思わず復唱してしまい、自らの失言に気づいた時にはもう遅かった。 イグナーツの手が、無造作にシュネの細い首を掴んだのだから。 たちまち寝台に押し倒され、気道が潰れた。「ぁ……ああ……っ」 目を見開いたまま喘ぐシュネを、イグナーツは嗜虐的に見下ろし、にやりと笑う。「やはり知っていたか。嘘吐きな花嫁だ」 そのまま惨めに喘ぐ唇へ、乱暴な口付けを落とされた。唇を割って舌が押し込まれ、意識が遠のく寸前──イグナーツはようやく手を離した。 シュネは咳き込み、酸素を求めて肩で息をする。しかし、まただ。力が使えない。無意識でも発動しなかった。揺れる視界で手を見たシュネは、愕然とした。 氷雪の紋様。その上に、赤黒く《蝕》の火輪と歯車──あの日、拘束されていた布に描かれていた印がそこにあった。 間髪入れず、鈍い衝撃が襲う。寝台から突き飛ばされ、頭を壁にぶつけた。 「んぐ…&helli
嫁いだその晩、シュネはイグナーツによって踏みにじられた。 背後からのしかかる重み。体を貫く熱と痛み。髪を引かれ、首を絞められ、どれほど悲鳴を上げても、助けを呼んでも──声は虚しく空間に吸い込まれるだけで、誰にも届かなかった。 「……いや、やめて、もう許して、お願いです」 どんな懇願も、すべては無意味だった。 彼の欲が満たされた時には、シュネの涙は涸れ、声さえ出なくなっていた。そんな時与えられたのは、初めての口付けで。屈辱に震えながらも、シュネは僅かな反抗として彼の舌を噛んだ。 ──それが、本当の悪夢の始まりだった。 激昂したイグナーツは、彼女を地下監獄へ幽閉し、そこで待っていたのは暴力と、言葉にするのもはばかられる屈辱だった。 希望も尊厳も失われ、彼女は思った。いっそ、死んでしまいたいと。 けれど──この男の手にかかって死ぬのだけは、我慢ならなかった。 ならば、自分で終わらせたい。 どうせなら、美しい場所で、最後を迎えたい。そう考えた時思い浮かんだのが、レルヒェ地方にある〝痛みの森〟。曰く付きで、人々が忌避するその森で、静かに終わりを迎えようと心に決めた。 それが定まると、どんな辱めにも耐えられた。不思議と心が凪いで、彼に対して従順に振る舞えるようになった。 そのせいだろうか。イグナーツも幾分か機嫌を良くし、穏やかな態度を見せるようになった。身体を拭い、髪を梳き、着替えの際には後ろ手だった拘束を前に変えるほどに。 そして──七日目の夜。 シュネは、固く縛られた布を歯で裂き、逃亡を試みた。 布には赤い塗料で描かれた奇怪な紋様。これが彼女の力を封じていたのだと、拘束された瞬間から感づいていた。そして、思った通りだった。 力を取り戻したシュネは、己の権能を解き放ち、真夜中の牢を破り、闇の中へと逃げ出した。 ***「おまえに似た女の目撃情報は、何度か耳にしていた。だが、まさか生きていたとはな。しかも〝痛みの森〟方面から街に来ていたとは…&hel